京田辺市 酬恩庵一休寺 一休禅師

京田辺市 酬恩庵一休寺 一休禅師
京田辺市 酬恩庵一休寺 一休禅師

当初の名称は「妙勝寺」鎌倉時代に臨済宗の高僧大應国師が建てたのが始めです。
一休禅師が1455年、師の恩に報いる意味も含めて「報恩庵」と名付けたそうです。
一休禅師が亡くなるまでこの寺で晩年を過ごされたことで「一休寺」の通称が知られるようになりました。

一休寺納豆

ここで納豆を買うのを忘れました、家族で納豆を食べるは私だけです。
かみさんは納豆のにおいが嫌だそうで、こっそりと納豆を食べた後はその容器までをきれいに水洗いします。

一休禅師は天皇家に連なる高貴なお方です

とんちで知られる一休さんとは? 実は天皇家に連なる高貴な人なのです。
この一休寺の奥に宮内庁が管理する陸墓があります、その中で88歳で生涯を閉じた一休さんが眠っています。

寺に来て初めて天皇家に連なることが分かった次第です。

一休寺 地蔵院

一休さんについて。  父は南北朝の北朝の後小松天皇といわれています。  
しかしこの時代、政争の中に巻き込まれることを嫌った伊予の局(母親)は嵯峨の家で一休さん(この時は仙菊丸と呼ばれています)を生みました。
それでも身の危険を感じて6歳の時に現在の四条大宮にあった臨済宗の北禅寺(山城国安国寺)に預け出家させました。
もともと頭が良い人で、又権力争いのなかに生まれたこともあり、
権力が嫌いで、権力者、高僧などをやり込めたことでとんちの一休さんのイメージが付いたのでしょうか?
長岡京市の別名「竹の寺」で知られる地蔵院で過ごしたようです。

一休寺 新緑

水面に移る新緑の景色です。

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