寂光院は天台宗の尼寺で、山号を玉泉寺、建礼門院ゆかりの寺

寂光院は天台宗の尼寺で、山号を玉泉寺
寂光院は天台宗の尼寺で、山号を玉泉寺

寂光院とは天台宗の尼寺で、山号を玉泉寺といいます。 推古2年(594)に聖徳太子が用明天皇の菩提を弔うために建立されたといわれています。

大原寂光院 火災により焼失

鎌倉時代の旧本尊は平成12年の火災により焼失したので、文化庁の指導により修復されて境内の奥に安置されています。現在は美術院による模刻された地蔵菩薩像が安置されています。

この苔むした石段を登っていくと、寂光院の門が見えてきます。

門の奥に見えるのが本堂です。門をくぐると、いつもは振り返らないのですが、ちょっと振り返るとなんとなく風情があるのでパシャ!この本堂も平成12年に焼失していて、「全て元通りに」の言葉の通りに焼け残った木材等を調査して5年の歳月を経て平成17年6月2日に落慶しそうです。中も結構新しく明るい空間でした。
本尊 六万体地蔵菩薩像が安置されています。


国宝修理所の故小野寺久幸師によって、形、大きさともに復元された新たな地蔵菩薩立像が安置されていて、鎌倉時代の当時の製作時の極彩色の美しさです。


確か左右に建礼門院(けんれいもんいん)と阿波内侍(あわのないし)があったと思います。中は写真が撮れなかったので、詳細はHPをご覧ください。多分「孤雲」と呼ばれる茶室です?だったと?そうではないかと思います。これは間違いなく諸行無常の鐘楼(しょうろう)です。

大原寂光院 建礼門院(けんれいもんいん)

建礼門院(けんれいもんいん)平徳子(たいらのとくこ又はのりこ)が本名です。第80代高倉天皇の皇后、安徳天皇の母ですが、父は平清盛、母は時子です。清盛と後白河法皇の政治的協調のため、高倉天皇に入内する(早く言えば政略結婚ですね)。

壇ノ浦の戦いで安徳天皇・時子は入水(お風呂ではありません)平家一門は滅亡します。但し徳子は生き残り京都へ送られ、そこで出家して大原寂光院で安徳天皇と一門の菩提を弔ったのです。

安徳天皇は1歳2カ月で即位し、壇ノ浦でわずか数え年8歳で、平時子に抱き上げら清盛のれて海に入水したそうです。入水したのが山口の赤間神宮の近くです。

この時に「尼ぜ、私をどこに連れて行こうとするのか」と問いかけて、二位尼は「君は前世の修行によって天子としてお生まれになられたが、悪縁に引かれ、御運はもはや尽きてしまわれました。この世は辛く厭わしいところですから、極楽浄土という結構なところにお連れ申すのです」といった言葉が残っています。

その言葉にわずか8歳の天皇が東の伊勢神宮を拝み、西を向いて念仏を唱えたそうです。たった8年で何を楽しんのでしょう、何もわからず祖母に抱かれて冷たい海に入水するのは、どんなかに苦しかったことでしょうね、想像もできません。

旅にはいろいろな繋がりが出てきます、何気なく京都の大原寂光院にお詣りしただけなのに、後でブログを書いていくと、ここ京都と山口の赤間神宮とのつながりが出てきます。
また赤間神宮といえば「耳なし芳一」でも有名ですが、その作者は小泉八雲氏で、その先生の浮気相手が九州の熊本の三角西港に出てくる、三角西港といえば明治日本の産業革命遺産群です。

私の旅は仕事帰りのチョット寄り道ですが、その回顧録を書いていると、チョット寄り道の広がりが出てきて、本格的に旅をしてみたいと思うようになってきました。

大原寂光院 朧の泉

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